古文漢文(古典)の授業は要らない・社会で役に立たないと言う人へ
古典の授業はいらない!

このように思っている人は非常に多いです。学校で古典の授業を受けてきた経験をもとに、多くの人は「役に立たない」という意見をもつのでしょう。最近、ビジネスをしている人の中にもこのようなことを言っている人がいました。

果たして、古典は本当にいらないものなのでしょうか?

今回はこの「古典」についての私独自の見解を書いてみようと思います。




「あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに」


これは「万葉集」に収められている男女の恋愛における和歌なのですが、下の句に「われ立ち濡れぬ」という表現があります。

男女の恋愛においての句に勃つとか濡れるとか表記している古典、今後面白い文章を考える自分にとっては非常に役に立ってるんだけどな~

うん、役に勃ってるんだけどな~

…と冗談はさておき、以下ではまじめに書きましょう。

古典(古文漢文)は必要?不要?


過去、進学塾で古典を含む国語を教えていた私に言わせると、“古典自体”は間違いなく世の中に必要です。ただし、一般的な学校で教わるようなスタイルの“古典の授業”であれば、正直いらないと思っています。

以下では、その理由ついてそれぞれ解説しておきます。

◎古典そのものは世の中に必要だと言える理由
◎一般的な古典の授業は必要ないと言える理由

古典そのものは世の中に必要



まず、現存の古典の文献には、当時の歴史を背景にした個人の価値観・考え方が色濃く反映されています。

例えば『更級日記』であれば、平安中期という時代を背景に、中流階級の女性(菅原孝標女)の一生の中での心の推移が実生活の描写とともに鮮明に描かれているのです。

具体的には…

「幼少のころは『源氏物語』に出てくるような華やかな生活に憧れをもち続けていたが、後に大人になって自分が宮廷での生活を実際に経験してみると、そこでの生活は自分の理想とはかけ離れた退屈な人生であることを知り、それに絶望した作者は、果てには信仰心をもつようになり、来迎を頼みとして余生を送る」

理想と現実のギャップを感じて挫折し、最終的には宗教的な心を拠り所とする心の推移が、作者のほぼ一生(40年間)の実生活と共に具体的に描写されています。

このように、古典の文献には当時の歴史を背景にした「個人の生き方・人生観」がその人自身の手によってリアルに記されているのです。

そのような人生観にあなたが共感を持つかどうかは別として、またその生き方が今の時代に通用するかどうかも別として、当時の歴史をもとにした人々の生き方を詳しく学ぶこと自体は非常に重要だと思います。

…なぜ重要かわかりますでしょうか?

もしわからないという人がいれば、次の質問に答えてみてください。

「これから数百年後、あなたの生き方も未来の人からすると古いものになります。その時、未来の人にとって、先人であるあなたの生き方・人生観は全く参考にならない要らないものになるんですか?未来に有益なものを示すことができない、そんな薄っぺらい人生をあなたは今歩んでいるんですか?」

これに対して「イエス」と答えるのであればそれまでです。現在進行形で薄っぺらい人生を歩んでいる人には、古典に記されている先人の人生観を学ぶ重要性も認識できません。

そして「ノー」と答えるのであれば、古典自体の重要性もわかるでしょう。あなたが今の時代を背景として自分自身の生き方で価値を見出そうとしているように、先人も同じようなことをして記録に残しているのです。

古典の書物は当時の人からすると、未来のあなたに向けて発したメッセージでもあるのです。それをメッセージとも受け取れず「ただ現代語訳して…」みたいな授業しか受けておらず、古典をくだらない一科目としてしか認識していないから「古典は意味がない」と感じてしまうんです。

そもそも、古典という語は「classic」と英訳されるように、そこには「優れた・一級品」という意味が含まれています

「ただ古い・昔のもの」というだけなら、時の経過とともに廃れていずれ消えていくはずです。実際、古い時代に生まれたもので、今の時代には残らず消えていってしまったものは枚挙にいとまがないでしょう。

しかし、現存する古典の文献は事実として廃れずに残っています。それは、古くに生まれたものであるにもかかわらず、今の時代にも価値があるからです。

つまり、そこには時代を越えた普遍的な価値があることになります。いつの時代にも普遍的に優れているとされる一級品(classic)、それが現存する古典なのです。

一般的な古典の授業は不要



しかし一方で、多くの学校で行うようなスタイルの古典の授業は、私は要らないと思っています。正直、今すぐやめていただきたい。

具体的には、次のような授業のスタイルです。

一般的な古典の授業の悪い点
①授業の前に宿題として生徒に予習させる
②授業中は生徒に当てて主に一文一文現代語訳をさせる
③テストでは授業で扱った文章を載せる

このやり方はもう最悪です。もはや何の意味もありません。古典の重要性を認識することはおろか、大学受験に合格する力すらつきません。これではせいぜい個別の文法問題に強くなるだけです。

具体的にマズイ点は以下の通りです。

①【授業の前に宿題として生徒に予習させる】
普通の高校生がいきなり古典の文章を渡されてもまともに予習なんかできません。もはや文章を理解するのに何をどう調べればいいのか、ということすらわからないのです。

どう取り組んでいいかもわからない状況での予習は非常に効率が悪いです。時間がもったいない。いきなり予習をさせるという行為はある面では教師の怠慢といえます。

②【生徒に当てて主に一文一文現代語訳をさせる】
現代語訳は部分的に必要ですが、全文をくまなく訳させて結局何になるんですか?時には「この文はこういう意味です」と無理やり訳を提示し、なぜそのような解釈になるのか説明しない先生がいますが、そのような先生に一言いいたくなります。

「いやいやいやいや、あなたには指導書や現代語訳が手元にあるからそのように言えるだけでしょ?」

③【授業で扱った文章をそのままテストに載せる】
これは言うまでもないでしょう。

授業で扱った文章の現代語訳と大まかな内容を理解しておけば高得点がとれる…もはや何を試すテストなんですかね?

しまいには、古典を教えているくせに「古典自体は役に立たない」などとほざく教員もいます。正直そんな人は死ねばいいと思っています。伝道師の中にそのような低レベルの教師が混ざっているから、世の人に古典の重要性が認知されないのです。

これでは古典の授業は単なる時間のムダになってしまいます。こんな程度の下級講師に教わるくらいであれば、学校ではプログラミング言語などを教えた方がずっと有益でしょう。

古典そのものも一緒くたに否定する人へ


歴史を知る重要性は以前示した通りですが、その歴史をもとに一個人がどのような生き方をしていたのかは、文献をもとに具体的に解釈することができます。その文献の解釈によって当時の歴史の理解も深まり、より鮮明になるのです。

つまり、歴史は古典の学習を通してより深く理解することができるのです。したがって、古典の学習そのものを否定することは、歴史を学ぶことの否定にもつながります

ここで歴史を「過去に起きた疑いのない事実」と捉える人はただのバカです。歴史とは「文献をもとに導き出した解釈」です。「事実」ではなく「解釈」なのです。そしてその文献の研究が進むにつれて、歴史の解釈は変わることがあります。古典をどう読み解くかによって、歴史の解釈も変わり得るのです。

したがって、歴史そのものが重要である以上は今後も古典の研究は重要であり、それが廃れることはないでしょう。

そしてあなたの生き方も今から数百年後には、古典の研究対象となっているかもしれません。

というわけで最後に、「古典は社会の役に立たない!」と言って古典学習そのものも否定している人に対して一言だけ言っておきましょう。


古典は時代を越えて普遍的に優れている一級品なんだから、その重要性もわからないお前よりはずっと社会の役に立ってると思ふ
コメント一覧
  1. 紙の穴総帥 より:

    そもそも、個人の生き方や人生観など他の人にはどうでもいい事でせう
    昔の人の人生観が、どうとかが受験科目になっている事自体おかしい
    やりたければ、やりたいヤツだけ大学で学べばいい
    古典より実用的な技術や家庭科を受験科目にした方がいいと思う

  2. ななし より:

    そもそも、古典の重要性が感じられないから否定するのであって、重要性わかってたら一方的な否定なんてしないでしょうに。一つ言わせてもらうなら、思想は人それぞれですから違う思想の人を否定するのはかまわない(貶すのはNG)ですけども、そもそも古典の重要性を教えてもらえなかった、知り得なかった人を一方的に貶す主の人間性はどうかと思いますよ。なにも、考えなしに古典を否定してるわけじゃないですから。もし無知が罪だと言うのなら、教育者としてそれを教えることのできないあなた自身の無力さを責めてください。客観的な目線から見るとあなたの意見、推しで喧嘩してる過激派オタク以下のものですから。一教育者として、古典擁護者としての自覚があるならそれら全体の民度を下げるような発言はしないでいただきたい。

  3. ななし より:

     解釈がどうのこうのではなく、人が真実をちゃんと理解できるかどうかが重要である。そのために、わざわざ古典を勉強する必要はない。例えば、聖書には新改訳、新共同訳、文語訳、口語訳などといった訳が上げれるが、その中でも新改訳、新共同訳といった訳は、歴史的事実や真理を正確に訳しているため、人々の間で大いに役立たせている。一方で、口語訳を批判した学者は多数にのぼる。よって、この事例から歴史を学ぶ上で古典を勉強する必要はない。そもそも、真実というのは存在するし、もし、真実が覆されたとしても、それは単なるパスカルが説いている理性の限界によるものであるし、歴史というのは人の解釈だけに任せて、「それは事実ではない、いや、事実だ」というような曖昧な事を避け、しっかりと事実を伝える必要がある。よって、歴史は事実ではなく解釈だという事は成り立たない。

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